所在地 | 鳥取県鳥取市東町。鳥取駅の北東2kmで、標高263mの久松山山頂部とその南西の麓。 |
構造 | 比高250mもある山頂部は、山上の丸と呼ばれ本丸、二ノ丸、三の丸等で構成され本丸には当初三層の天守が築かれていた。麓の山下(サンゲ)の丸には、天球丸、二ノ丸、三の丸、馬場などが配置されていて、天守消失後は二の丸に御三階櫓を構えて天守の代用とされていた。 |
築城 | 天正元年(1573)、山名豊国が因幡国の本城として築いた。慶長6年(1601)、池田長吉が入城し大改増築した。 |
城主ほか | 山名豊国、毛利豊元、山名豊国、吉川経家、宮部継潤、長房、(長吉流)池田長吉、長幸、(宗家)池田光政、(忠雄流)池田光仲以後15代 |
その他 | 天正9年(1581)、豊臣秀吉の鳥取攻めを前にして、山名家の重臣森下・中村の2将は城主だった山名豊国を追放していたが、毛利方に応援の武将の派遣を要請し、吉川経家が着任した。6月、秀吉は久松山を前にした帝釈山に陣を構え、大軍で12Kmにわたって包囲網をしいた。毛利方の補給はことごとく失敗し、城内の城兵は餓死においこまれ、死者の肉までも食べるものが出てくる状況だった。10月秀吉から、山名の重臣等は切腹させるが、経家ら毛利方の兵は助けるとの降伏条件が示されたが、経家は自分はたとえ加番だとしても大将なので、自分一人の命だけでほかの者は助けて欲しいと切腹した。 |