和田城・高崎城

 
高崎城和田城
所在地高崎市高松町。高崎駅の西南西1Km地点で、西を烏川が流れている。高崎城の西郭付近にあった。
構造和田城跡に築城された平城。本丸を中心に、二の丸、榎郭、西の丸、三の丸と同心円状に廓を配した囲郭式構造で、さらに城下町を包んで遠構えも構築されていた。三重の天守閣を有していた。南北400m、東西200m程の規模で、本丸の南と北に第2郭、その外側に第3郭もあったらしい。並郭の構造で、山城時代から平城時代に移る過渡期の形式とされる。
築城慶長3年、箕輪を支配してた井伊直政は、幕命により高崎に封じられて大規模な築城をに着手した。安藤重信ら3代で大規模改修された。和田信忠が応永25年(1418)初めて城を築いた。正長元年(1828)和田義信の説もあり。天正18年(1590)、信業が小田原の役で参戦していた留守に、前田、上杉の北国勢に攻め落とされ、その後は廃墟となった。
城主ほか井伊直政(2年半)、諏訪頼永(城代、5年)、酒井家次(13年)、松平(戸田)康長(1年)、松平信吉(2年)、安藤氏(重信から3代)(77年)、大河内氏(輝貞から10代)和田信忠(和田義盛の裔、義信の子)、信輝、信景、業繁、信業
その他安藤重長に預けられる形で高崎へ逼塞の処分が下された家光の実弟徳川忠長は、寛永10年(1633)、幕命により同地において自害した。享年29。墓所は高崎市通町の大信寺にある。 信輝は、関東管領上杉憲政に属していて、北条氏綱と上杉朝定との戦で討ち死にした。
 業繁は、永禄3年(1560)謙信の小田原進撃にに加わったが、離反した。そして信玄に内応した。謙信に攻められたが、防戦した。永禄6年謙信は第2次の和田城攻めを行ったが、これを守り切った。天正3年、勝頼の長篠の戦いに従ったが、討ち死にした。このとき矢中七騎の奮闘により信業は危機を脱することができた。
 信業は、武田滅亡後は滝川一益に従った。神流川の合戦の後は、北条氏直に従った。小田原の役では、小田原に立て籠もったが、落城し、氏直と共に高野山に入った。その後、小笠原忠政に頼り、大阪の役にも参戦した。

「上毛古戦記」山崎一著より(和田城)「群馬県古城塁址の研究 下巻」より2010/02/03 歩行図
三の丸北側の土塁と堀頼政神社
内村鑑三漢詩碑三の丸南側の土居
旧本丸の乾櫓旧三の丸東門
大手門付近の模擬石垣三の丸東側の水堀

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