所在地 | 大阪府高槻市城内町。高槻駅の南々東930m、阪急高槻市駅の南700mで、淀川右岸から2.3Kmほどの平地。 |
構造 | 本丸とその北に並ぶ二の丸を夫々堀が囲み、それらの周りを三の丸、厩郭、弁財天郭、蔵屋敷、帯郭、出丸が堀を伴って囲み、それら全体を外堀が巡っている平城。 |
築城 | 永禄11年(1568)、入京した織田信長により入江城と呼ばれていた城は、和田惟政に与えられ改築された。その後の高山右近は、4倍の広さに拡張した。 |
城主ほか | 和田惟政、高山右近、新庄氏、豊臣直轄地、徳川直轄地、内藤氏、土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏13代 |
その他 | 和田惟政は、信長が将軍足利義昭を邪魔もの扱いすると、怒って信長に叛旗をひるがえしたが、逆に滅ぼされてしまった。 高山右近は父飛騨守と共にキリシタンの布教に力を入れた。秀吉がキリシタン禁教に踏み切った時、信仰を捨てるか城を捨てるか迫られて、城主の地位を捨てた。その後、家康の発した大禁教令によりマニラに追放された。 しかし右近は、築城を急ぐあまり、高槻にある社寺の墓石や敷石等を片っ端から運び去ってしまった。また、その費用のため領内百姓達に苛斂誅求を行ったことで、地元では不人気だった。 明治10年(1877)に東海道線が敷設された時、城の石垣から松の大木まで線路の地固めのために運び埋められてしまった。 |