忍城

 
所在地埼玉県行田市本丸。行田市駅の南西850mの平地。
構造荒川と利根川の氾濫によって作られた自然堤防や沼地を要害とした平城。
築城延徳元年(1489)に成田親泰が忍大丞を滅ぼし、その翌年築城した。小田原城降伏のあと、松平家忠が入城し修築した。元禄14年(1701)、江戸城北辺の防備として城の増築がされた。
城主ほか成田親泰・長泰・氏長、松平家忠、松平忠吉、徳川氏城代、酒井忠勝、天領、松平信綱、阿部忠秋・正能・正武・正喬・正充・正敏・正識・正由・正権、松平忠堯・忠彦・忠国・忠誠・忠敬
その他 成田氏は管領山内上杉氏に属していたが、後に上杉謙信に従い、更に小田原北条氏に属した。その為、謙信に度々攻められたが、落とされることはなかった。
 秀吉の小田原攻めの際には、石田三成の大軍に攻められ、利根川荒川の水を引いての水攻めを受けたが、堤防が切れたため守りぬき、「忍の水城」として名を高めた。小田原城降服した後に城を開城した。
 関東七名城の一つ忍城も、明治維新後ほとんど取り壊されてしまった。現在ある天守は、形も場所も本来と異なる模擬建物で、博物館を巡る土塁、堀も本来のものではない。

縄張り「続・群馬の古城」より2001/12/ ? 歩行図
説明板模擬天守
模擬天守かっては最も要害だった大沼は水城公園
城の東南の丸墓山に石田三成は陣を置いた本丸北の東照宮

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