所在地 | 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜。大多喜駅の西400mで、夷隅山系より西から張り出した一つの尾根の末端で、南側は断崖となって夷隅川に落ち込んでいる所。 |
構造 | 標高70m(比高40m)の尾根の末端が本丸で、そこから東に下って、二の丸、三の丸が配置される連郭式平山城。水堀は北側と城下町に面した東側から三の丸を囲うように造られ、三の丸二の丸間、本丸周囲には空濠があった。又、絵図からは、天守の他に城内に九棟の櫓があったことが知れる。 |
築城 | 天正18年(1590)本多忠勝が、徳川家康より里見氏の抑えとして領地を与えられ、小田喜根小屋城に入ったが、防備不十分のため新たに築城した。 |
城主ほか | 本多忠勝、忠朝、政朝、阿部正次、青山忠俊、阿部正令、阿部正春、稲垣重富、松平(大河内)正久以降9代 |
その他 | 慶長14年(1609)、フィリピン群島臨時長官ドン・ロドリゴの一行317人が、任期を終えメキシコへ向かう海上で遭難し上総の海岸に上陸した。領主本多忠朝は一行を大多喜城に呼び寄せ優遇した。ドン・ロドリゴは大変感激して、その様子を「日本見聞録」に書いた。 最後の藩主松平正質は、幕府総督として鳥羽伏見の戦いの指揮をして大敗し、朝敵となった。大多喜城は官軍に攻撃されることとなり、城主松平正質は、無条件降伏し身柄は佐倉藩に預けられた。その後許され、大多喜藩知事に任じられ、水道開発などの業績を残した。 本丸にはかって三層の天守が上がっていたが、天保13年(1842)に焼失した。昭和50年に今の模擬天守が博物館として鉄筋コンクリート造で建てられた。 |