小田原城

 
所在地神奈川県小田原市城内。小田原駅の南方600mにある小丘。
構造江戸を守る東海道最後の拠点として東南側を重視し、三の丸、二の丸の他に馬出曲輪、御茶壺曲輪などが配されていた連続包括型平山城。
築城鎌倉時代、小早川遠平が小峰山に館を構えたという。下って応永24年(1417)、大森頼春が入城し、修築。明応4年(1495)北条早雲が占拠し、以後5代にわたって関東の覇者として城郭を拡張していった。小田原の役の後家康は、小峰山の城域を廃し、城下をめぐっていた惣構えの土塁・堀を破却した。江戸期には大久保・稲葉氏により近世の城に造営された。
城主ほか大森頼春以降5代、北条早雲以降5代、大久保忠世以降二代、番城(安藤重信、戸田康長他)、安部正次、番城(近藤秀用、安部正之他)、稲葉正勝以降3代、大久保忠朝以降10代
その他 北条早雲は、鹿狩りという名目で家臣を城内に忍ばせ、だまし討ちにより一気に城を奪い取った。
 北条時代の城は、城下町を城内に取り込んだ惣構えで、全体を取り囲む堀と土塁は12Kmに及んでいたと言われる。
 秀吉の小田原攻めは、北条方の3ヶ月にわたる籠城ののち降伏し、氏政、氏照、大道寺政繁、松田憲秀が切腹、当主氏直は助命され高野山に入った。
 大久保忠世の子忠隣は、二代将軍秀忠の寵遇厚く権勢を誇ったが、62歳の時家康の忌諱に触れ、突如除封処分を受け改易された。大久保忠朝(忠隣の孫)は、佐倉から配置替えで小田原藩主となり35年振りに大久保家が父祖の地に返り咲いた。

「図解日本の城」より2010/05/30 歩行図 東海道歩き
二の丸東堀馬出曲輪と二の丸隅櫓
馬出曲輪 馬出門二の丸住吉橋
二の丸銅門常盤木橋からの堀跡
本丸入口の常盤木門天守閣
北条氏の頃の小峰曲輪北堀二の丸南堀

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