所在地 | 群馬県伊勢崎市堀口町267-2。神保原駅の北東5.2Km、東武剛志駅の西3.6Kmで、利根川と広瀬川との間の平地。 |
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構造 | 不明。「耕地整理のため完全に消滅してしまった。川などの依託地形のまったくない館城であったと推定する。」日本城郭体系 |
築城 | 不詳。天文年間(1540頃)、那波宗俊? |
城主ほか | 那波宗俊、弟宗元、次郎顕宗、北条方、徳川方松平家乘 |
その他 | 那波氏は、大江広元の政広を祖とし、政広-正茂-頼広-宗広-宗茂---宗政-宗俊の系譜が伝わる。宗俊は、天文10年(1541)金山城の横瀬泰繁に攻撃をかけたが、敗死した。永禄3年(1560)上杉正虎は那波城を攻め降し、北条(キタジョウ)高広を関東諸将の総横目としたが、那波宗元は本領を安堵された。 慶長6年(1601)、松平家乘が美濃岩村に移って、城は廃された。 |
縄張り図なし | |
2018/01/05 歩行図 |
名和小学校の校庭にある城址碑 | 第二中学校近くの畑の中の本丸跡碑 |
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