松前城

 
北海道松前郡松前町松城。松前町役場の西方140m小丘の上。
構造東を大松前川、西を湯殿沢を障害として、山に繋がる北は墓地のを嫌うアイヌに備えて神社や寺町とし、本丸、二の丸、三の丸、城門16、楼櫓6のほか外廓に砲台7座を有する平山城。
築城安政元年(1854)、ロシアの南下に備える目的で幕命により、高崎藩の兵学者市川一学の設計で、従来あった陣屋程度の城を取り壊して築城された。
城主ほか松前歴代藩主、旧幕府軍、新政府
その他 慶長5年(1600)松前氏の名乗りを徳川家康より認められた蠣崎慶広が、福山の丘に新たな館を築いたのが始り。蝦夷地は、所領の石高表示ができず、無城大名だった。家臣に対しての知行も禄高によらず、蝦夷地を場所に分けて、その場所の蝦夷との交易権を与えた。この交易に伴う商人や蝦夷の扱いに対するトラブルが頻発した。
 幕府は、文化4年(1807)に松前藩には辺境を守備する実力なしとして、奥州伊達郡梁川に九千石を与えて移封した。しかし、わずか22年で蝦夷地全地を再び松前藩に還付した。
 幕府は、新しい城がちょうど完成した時、神奈川条約により箱館を開港して箱館奉行を置き、翌年には松前藩の領地を海岸30余里だけとして、残りの蝦夷地は奥羽各藩に警備支配させた。
 明治維新では、松前藩にクーデターが起きて勤王派に属することになり、そのため榎本武揚率いる旧幕府軍に城を攻め落とされた。敗れた藩士らは津軽に逃れ、明治2年の官軍の攻撃に加わり松前城を奪還したが、6月には版籍奉還した。

「探訪日本の城1奥羽道」より2009/04/28 歩行図 蝦夷の道歩き
天神坂門近くの案内板天神坂門近くの案内板
天神坂門近くからの外観復元の天守閣城下からの天守閣
松前藩主松前家墓所内堀からの天守閣

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