所在地 | 京都府舞鶴市南田辺。西舞鶴駅の北460mの平地。 |
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構造 | 城の東を北流する伊佐津川からの水を利用し、中央にほぼ方形の本丸を内壕で囲み、その周囲に二の丸、三の丸を同心円状に配し、各郭に濠を巡らした平城。 |
築城 | 織田信長にこの地を与えられた細川藤孝(幽斎)が子忠興とともに縄張りして、天正8年(1580)に築いた。 |
城主ほか | 細川藤孝(幽斎)、忠興、京極高知、高三以下京極氏三代、牧野親成以下牧野氏10代 |
その他 | この地は足利一門の一色氏が丹後の守護に任じられて支配権を握っていたが、天正6年(1578)織田信長が細川藤孝、明智光秀に攻略させた。 関が原の合戦に際して、忠興は石田三成の誘いを退けて徳川方に属したため、妻玉子ガラシャ(明智光秀の娘)は大阪の邸を西軍に囲まれて2子と共に自殺した。父藤孝(幽斎)は此の報を聞いて、居城宮津城を焼いて、舞鶴城に僅か五百余の兵と籠もり、福知山城主小野木氏一万五千の兵と戦うこと五十余日の後、後陽成天皇の勅命で城の包囲は解かれた。幽斎は古今伝授を受け、後の後陽成天皇となった智仁親王に秘伝書を送ったことがあったからである。 |
縄張り「現地案内図」より | 2015/04/20 歩行図 |
本来の本丸堀上の復興城門 | 天守台跡 |
復興隅櫓 | 説明板 |
本丸井戸跡 | 本丸内石垣 |
心種園からの本丸 | 内堀跡に面した二の丸石垣 |
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