久留里城(雨城)

 
所在地千葉県君津市久留里。久留里駅の南東1.6Kmで、小櫃川右岸の標高140m(比高100m)の尾根の上。
構造尾根上の本丸の西200mには二の丸があり、これらの周辺に天神曲輪、薬師曲輪、水の手曲輪などが配置され、二の丸から北に延びる尾根上にも堀切や郭が配置されている連郭式山城。また、二の丸の西の麓の平地には、三の丸と外郭が設けられていた。
築城上総武田氏の古久留里城が起源と考えられるが、天文10年(1541)侵入してきた里見義堯が築いて居城とした。寛保2年(1742)入封した黒田直純が城を再修築した。
城主ほか上総武田氏、里見義堯、義弘、大須賀忠政、土屋忠直、利直、頼直、酒井忠清、黒田直純以後10代
その他 現在ある天守は、江戸時代のものとは大幅に異なる模擬天守である。
 天文23年(1554)北条綱成は2万余騎の軍を従えて、里見義堯、義弘の守る久留里城を攻めた。小櫃川を挟んでの数十日に及ぶ攻防戦の末、北条軍は撤退した。翌弘治元年(1555)、再度の北条軍の攻撃にも城は落ちることなかった。
 永禄7年(1564)、里見氏は上杉氏(長尾)と連合して、北条氏相手の国府台の戦いを行ったが、敗退し久留里城に退いた。その後も天正2年(1574)に和睦を結ぶまで北条氏との戦いは続いた。
 天正18年(1590)北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、小田原攻めに遅参した里見義康から上総国を没収して安房1国に領地を減じた。

縄張り「現地パンフレット」より2012/03/12 歩行図
二の丸の北の尾根上の郭二の丸の北の尾根上の堀切
薬師曲輪の古戦史碑薬師曲輪からの三の丸及び北条との古戦場
二の丸長屋塀天神曲輪
本丸 模擬天守波多野曲輪
本丸天守台跡水の手曲輪お玉ヶ池

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