金窪城

 
所在地埼玉県児玉郡上里町金久保。神保原駅の北西1.9Kmで、神流川と烏川との合流点の南1.2Kmの平地。
構造平城、詳細不詳
築城治承年間(1177-81)に加冶家治が築城したと伝わる。元弘年間(1331-34)に新田義貞が修築したと伝わる。
城主ほか加冶家治、・・畑時能、・・斎藤盛光..定利、川窪信俊
その他 加治家治は、武蔵七党の一つ丹党の出身。
 畑時能は新田義貞の家臣で四天王の一人に数えられ、金窪城を預けられた。
 斎藤盛光は斎藤実盛の子孫で、寛正年間(1460-66)には居住していたと伝わる。滝川一益と北条氏邦との神流川の合戦において、斎藤一族は北条方として戦い、ことごとく討ち死にし城も焼失した。
 川窪信俊は武田信玄の甥で信玄夫人に養育されたが、徳川家康の関東入国にしたがって陣屋を置いた。元禄元年(1698)川窪氏は転封となり、陣屋は廃された。

縄張り「続・群馬の古城」より2012/03/07 歩行図 (2012/02/27分含む)
金窪城址碑同説明板
城址碑後ろの土塁 ?金窪城と縁の深い陽雲寺
寺の説明板畑時能の墓

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