鉢形城 1/2

 
所在地埼玉県寄居町鉢形。寄居駅の南方930mで、荒川南岸の崖の上。
構造荒川と深沢川の間に扇状に展開しており、南西が大手、北東が搦手となっている。大手口から、それぞれ深い堀と土塁で仕切られ、諏訪曲輪、逸見曲輪、三の曲輪、二の曲輪、本曲輪、笹曲輪と連なっている連郭式平山城。
築城文明8年(1476)に関東管領山内上杉顕定の家臣だった長尾景春が築城したとされる。永禄3年(1560)頃北条氏邦が大改修を行い、居城とした。
城主ほか長尾景春、上杉顕定、顕実、憲房、憲寛、憲政、北条氏邦、(徳川家康代官)成瀬正一
その他 山内上杉氏の家宰だった長尾景信が五十子において陣没したが、上杉顕定はその嫡男の長尾景春でなく弟忠景を家宰とした。景春はこれに怒り、顕定に対して復讐を繰り返した。
 文明2年(1478)扇谷上杉氏の家宰太田道灌が鉢形城を攻め、上杉顕定が入城した。
 上杉顕定の死後、養子上杉顕実が跡を継いだが、同じく養子の上杉憲房により落城させられた。
 永正12年(1515)、上杉憲房は山内上杉家の家督及び関東管領職を継いだが、扇谷上杉家、北条氏綱、武田信虎等との長年に渡る抗争に巻き込まれた。
 憲房の死後、養子憲寛が継ぎ、後に争いの末実子憲政が継いだが、扇谷上杉朝定とともに川越夜戦で北条氏に敗れ、北条氏邦が入城して北関東支配の拠点とした。
 天正18年(1590)、秀吉の小田原攻めの際、前田利家等の連合軍(35千)に包囲され、3千の兵で1ヶ月の籠城戦の末開城した。

縄張り「現地説明板」より2011/11/20 歩行図 鎌倉街道歩き
鉢形城 笹曲輪笹曲輪と本丸との間の石垣
本丸から荒川を見下ろす伝御殿曲輪の本丸碑
現地説明板田山花袋の碑
二の曲輪二の曲輪から三の曲輪(左)と馬出(右)
手前の堀は平成9,11年調査によれば、
深さ12mの障子掘だったという

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