所在地 | 島根県安来市広瀬町富田。荒島駅の南々西8.0Kmで、飯梨川右岸の標高184mの月山山頂部とその尾根上。 |
構造 | 比高140mの月山の頂上部に三ノ丸、二ノ丸、本丸を置き、そこから80m程下がった丘陵部に山中御殿、花ノ壇、奥書院等を配した山城 |
築城 | 不詳。文治元年(1185)に佐々木義清が出雲守護として居城していたと云われる。その後、歴代城主によりいくども改修工事が行われたようだ。 |
城主ほか | 佐々木氏・・塩治氏・・尼子持久、清定、経久、政久、晴久、義久、毛利氏番城、吉川広家、堀尾吉晴 |
その他 | 天文11年(1542)から翌年にかけて、大内義隆の軍に毛利元就等も合流して、尼子晴久の月山富田城を攻めたが、尼子側から大内側に鞍替えして参戦していた国人衆が再度尼子方に再度寝返って、大内軍は退却に到り大敗してしまった。この戦さから大内氏は衰退し滅亡に到った。 永禄8年(1565)頃には月山富田城への補給線をほぼ断ち切っていた毛利元就の毛利軍は総攻撃をかけたが、尼子義久らの尼子軍は阻止し、毛利軍は一旦撤退したが、9月再び包囲し兵糧攻めを行った。城内は食料が尽き籠城兵は集団で投降し、翌年尼子氏は降伏した。 尼子氏降伏の後、山中鹿之介は毛利氏に臣従せず、尼子勝久を擁して富田城の奪還を図るが敗戦するも、なおも尼子家再興の悲願を果たそうと尽力するが、播磨の上月城の戦いに敗れて捕らえられ、安芸に送られる途中で殺された。 徳川家康が堀尾吉晴を富田城主としたが、慶長16年松江城が築かれて移り、月山富田城は廃城となった。 |