所在地 | 福島県会津若松市追手町。西若松駅の東1.4Kmの平地で、南を湯川が東西に流れる。 |
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構造 | 本丸と帯郭を水堀が取り囲み、その東を二の丸、三の丸がそれぞれ堀を伴って配置され、西と北の馬出しが堀を持った出丸に改修され、これら全体と武家屋敷等を取り囲む堀があった。 本丸には、外観復興の天守閣があり、帯郭とは石垣や天守から干飯櫓に連なる長屋で区分されていた。 |
築城 | 天中元年(1384)葦名直盛がこの城の前身となる黒川城を築き、文禄元年(1592)蒲生氏郷が大増築を行った。その後も、上杉景勝や加藤嘉明も大改修を施した。 |
城主ほか | 葦名直盛、蘆名氏12代、蘆名義弘、伊達政宗支配、蒲生氏郷、秀行、上杉景勝、蒲生秀行、忠郷、加藤嘉明、明茂、保科正之、正経、松平(保科)正容、容貞、容頌、容住、容衆、容敬、容保、喜徳 |
その他 | 伊達政宗は、蘆名義広との戦いに勝ち黒川城を落としたが、関白秀吉は惣無事令に反するとしてこれを没収し蒲生氏郷に与えた。 上杉景勝が越後から移ってきた後、秀吉は没し、新城を築こうとしたことが、徳川家康の上杉攻めの理由となり、関ヶ原の合戦の原因となった。家康の天下となると、上杉家は米沢に移された。 幕末の戊辰戦争では、1ヶ月にも及ぶ籠城戦が行われたが、戦国期にはなかった射程距離の長い大砲による砲撃により降伏に到った。その後会津藩は斗南藩として再興を許されたが、火山灰土と風雪厳しい地で、艱難辛苦を強いられた。 |
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